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2008-07-27 Sun 03:44
びぼーろく。
内田樹の『子どもは判ってくれない 〜大人の振る舞い方〜 』(←フランス語訳は、多分。) ☆正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。 具体的な提言をすれば、必ず誰かから異論対案が出るからだ。 そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かって言っているのかも不分明になる。 ☆「金正日は東京を火の海にするというような考えを持ってはならない」というのも同じく正しい。 しかし、それでは、どうやってフセインや金正日の「考え」に影響を与えるのかについての合意を形成するときに、この意見の「正しさ」はほとんど関与しない。 包括的に「正しいこと」を言う人は必ずしも個別的・具体的な局面において「適切な判断」を下す人ではない ★はぁぁぁ……!!俺かぁぁ僕のことですかぁぁぁああ!!? 具体的なことを言わないのは、考えないのは、きっとそこに否定の可能性が生じるからなのでしょうね うん、そりゃあ自分で気付いてはいるけれどね、うん、あんまし言いたくないことなのよね(チキン…! 否定への恐怖。逃避。とんでもなく、根付いているんだろう。 普遍的なものを求めるのは、それが時間・場所軸によらず「良い」からなのではなくて、決して否定が生じ得ないからなのではないか、ってね… 「良い」から良いのではなくて、否定がないことが良い、なのかなあと。 前者→普遍がア・プリオリな肯定価値基準 後者→否定への恐怖が存在、否定からの逃走 そんな反存在であるとしたら…… うーーーん、どうしよう、どうなのかな?反存在、って。 ★ハイ!現実世界では本当にダメダメ役立たずッ子デス!! ………努力しよう。 ☆「国」が自分の「身内」だけで構成される共同体なら、「国を愛する」ことは簡単だ。 しかしそのような「愛国心」は「愛己心」というのとほとんど変わりがないのではないか。 もし、自分が大好きで、自分を守り、自分の利益だけを最優先的に配慮するだけでは足りず、「自分の旗」を家に掲げ、「自分をほめたたえる歌」を高唱している人間がいたら、そいつが「バカだ」ということは誰にだって分かる。 「日本国民」とは自分と政治的意見を同じくする人間だけのことであり、そうでない人間の意見や利害は配慮しないと言って憚らないような「愛国者は」は、「バカ」生の本質的なあり方において、この「愛己者」と変わらないと私は思う。 ★現実世界を始めから自分の世界枠から外す…自分を否定し得るから、否定は恐怖だから、否定からの逃走という旗を持つから。 そして、自分大好き自分知りたい自分世界に耽溺。世界は自分を刺激して自分がアウトプットするための、二次的なもの。自分ありきの世界であって、世界によって作られた自分・自分に内在化している世界は無視。 すみません、配慮しないと言って憚りません。馬鹿です。 ☆反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」にすぎない。 「同胞」とは、自分と政治的意見を同じくする人間だけでなく、私たちに何の「善きこと」も贈ってくれないばかりか、むしろことあるごとに私たちの生活の邪魔をする「不快な隣人たち」をも含んでいる。 そのような「不快な隣人たち」と共生し、その利益を配慮し、その権利を擁護すること、それが「市民」の条件であるとオルテガは言っているのである。 ☆いったいいかなる根拠があって、「正しい」ことの実践はそれ自体が「快適」であり、「正しいこと」の成就は「快適な社会の出現」であると信じていられるのであろう。 「市民として正しくふるまう」ということは、ほとんどの場合、「不快」に耐えることだ ☆自由主義は最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ地球上にこだました最も高貴な叫びである。それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。 敵と共に生きる! 反対者とともに統治する! オルテガ=イ=ガセー『大衆の反逆』 世界の名著56 中央公論1971年 p442-443 ★これら一連。なるほろー 現実的であり、理想主義的だなあ、と思う。 現実的→他者が自分に益なものばかりでないこと(実際そうであるからこそ排除行動が起きるわけだしね… 理想主義的だなあと(批判的に)言うのは→正しいことが耐えることであるとしたら、そんな世界、多分みんな望まないんじゃね? 自分が弾圧する側になってもいい、快適である方がいい。そう言うんじゃね? (僕は言わない。と思う。多分。) ★しかし、これら一連はなるほどーだなあ。オルテガ読んでみたいな、図書館にあるから確認してみよーう ☆自動車の始業点検において、「私の車は二〇〇キロ出る」とか「オーディオの音質が素晴らしい」とか言ってみても無意味であり、必要なのは「ノイズがないか」「オイル漏れがないか」「タイヤが摩耗していないか」といった種類のチェックであることは誰にでも分かる。 「私の知性のどのへんがうまく機能していないのか」を点検することは、「私の知性はどれくらい素晴らしく機能するか」をショウオフすることよりずっと優先順位の高い仕事である。 ★本当に、この人例示がうまいなあ。僕はめっちゃへたくそだから見習いたい…(具体嫌いだものな! ☆「他人の生き方に影響を与えたい」という「関係への渇望」なのではないかと私は思う。 相手が自分の言葉によって「縛り付けられ」、身動きならなくなっているありさまを、深く親密な、かけがえのない関係の成就だと勘違いする人、それが「呪いをかける人」である。 どこかで他者とのコミュニケーションの欲望には「節度」を設けるべきなのだ。 ★僕はハラスメントをしかねない人間です。それは、関係への渇望が強いから。うん、確かに。 節度があるから保っていられる。 ☆外国に武力侵略されるのは誰だっていやだ。そのことについては有事法制に賛成の人々も反対の人々も、日本国民全体で基本的には合意できているはずである。原則的な合意ができているなら、賛否のどちらの立場であろうと、私たちは「クール」に話し合うことができるはずだ。 ★うーん、これもまた、現実的な理想主義な気がするな… かつて僕もこのように思っていたけれど、そしてすごく現実的で知的で合理的だと思っていたけれど 実現、しないのよね。 大変なことがあればあるほど、生物は熱くなってしまう。非常時にはエネルギーが発揮される。それが内田さんで言う「そういうもの」なんじゃないかなって。 僕はこの内田さんの意見は全く持ってその通りだと思う。できる人間はやるべきだと思う。 しかし…そういう人間は、少ない。まあ、トップレベルでは、少なくともやれよ、って話なのかな。 ☆過去に帝国主義的・植民地主義的な侵略を受けた経験のある「被害国」は、「加害国」に対して、倫理的な「貸し」があるので、「加害国」には許されない種類の政治的行動を自分には許すことができる =倫理の相称性・同罪刑法 →しかし、国際政治においては、時間というファクターがないと、加害者と被害者のリアリティの間に有意な差が生じる。 ★あのさ、これってばまさに今僕が問題にしていることじゃね!? おととい、気が付きました。僕は人間関係にコストのトレードオフを採用している部分がありました。 想い、行為。それが物理的・金銭的負担でなかったとしても、コストに換算される。それらのトレードオフの結果バランスが保てていたら僕は関係を続けられている この具体的内容はいつかちゃんと記述したい。なのでここではさておいて。 しかし、トレードオフはだめなのか?関係において、精神のトレードオフさえだめなのか?なにがいいの? 倫理の相称性・同罪刑法が国際政治においても適用されていると気付く。ああ、矮小だなあ、と思う。 ……しかし、みんな日常にそれは持ち込んでいない、のかなー 日常においてもそうであったのなら、政治において持ち込むことを批判なんて決してできないのでは、 いや、政治は日常と分けてあるべき関係性か、 そこは、たとえ日常の関係性がどうであるべきかわからなくても、方針は打ち立てて置けよ的ところか だがそれに同罪刑法的思考があるっつう。 あ、ダメ、って訳じゃないよね、そういう正しいか否か、という思考法で語るのではなく 使えるか使えないかという有効性の観点からみたい。 これはみんなで考えるための基準の統一、正か悪かは理想だから統一できないしするものでもないが、使えるか使えないかというものさしならみんなで共有できる、議論できる。…ある程度は。 ★…国際政治、国という主体では、何を利益を被る基準として考えるのかなあー おっきな「国」というイメージ、国民…て誰だ? ☆あらゆる「加害の行動」はその前史として「被害の経験」を有しており、そのトレードオフとして発動する。 ★戦争は必ず正当化の言を伴い行われる。 |
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