おひるねまくらをよろしく

むしんろんじゃ。すきでなったわけじゃない。かみさまいないとたてないんだよ。いてくださいよ。でもいたらいたでぜったいはんぱつする。はんどうでしかないこのこたい。じゅんすいなあしにかみさまをみます。
運命だって、選んじゃうんだからね★  ― 論理矛盾です。
2008-12-18 Thu 18:24
がくせーたいかーいは順調に成立致しましたそーで。
僕は待機ですからほとんど会場の様子は知らないけれど。はぁ。つまらぬ…
このままじゃこれからも打ち上げ係に任命され続けてしまう気がする。
そしたら議場に行けないまま終わってしまう!
………来年後期は断りたいところだ。


で、帰るとか言ってましたが(内心案の定)帰れませんでした
打ち上げが始まっても第二弾豚汁を作る任務があったためしばらく残り
キウイのお酒をOBさまが買ってきてくださり、まあバイクには乗れないということで。
そして寝たのは6時半です。朝の。
10時半からM本先生の生物学の哲学ですよ  わあすっげぇ 。
しかしこんだけ寝ていないと逆に頭は起きていた。活発な訳ではないが。
今日はちゃんと質問できましたよー  
うん、うん、精神的ヒッキーの僕にしては目覚ましい進歩です。
このブログを見ておられるのかもしれないが、何もやましいことはないので普通に垂れ流してしまいます。


ええと、てなわけでめも。


遺伝子選択主義(ドーキンス、ウィリアムズ)に対する批判として、E.ソーバーはその反例を挙げる
:ヘテロ接合子優越
(赤血球が鎌状となるがマラリアに耐性になれるa遺伝子があり、遺伝子型がaaだと赤血球の異常で致死となるが、Aaだと死ぬほどの貧血でもなくマラリアの耐性もあるためAAとaaよりも生き残りやすい)(高校の頃やったなこれ。)
つまりこの例は、集団内の遺伝子頻度によって遺伝子の適応度が変わってしまう、という例。
しかしソーバーは、集団内の遺伝子頻度の状況によって適応度は変わってはいけない、遺伝子頻度がどのようなものであっても常に適応度が一定とならないならば、選択の単位として妥当ではない、と言う。(「一様因果的効力の原理」)

これに対する遺伝子選択主義者(ステルニーとキッチャー)の反論
:タカ派ハト派の例
ある集団内でタカ派の奴らばっかりがいたとする。タカ派とタカ派が遭遇しても両者ともに怪我をして損をする。
しかしその中でハト派の奴が出現すれば、ハトはタカと遭遇しても逃げて怪我も何もしないため、「タカvsタカ」よりも損をしない。→適応度が高い。
だけど、そうして集団内のハト派の頻度が上がったとする。ハトとハトが出会っても怪我もしないが分け前も少し。そんな中でタカ派の奴が現れたら、タカはハトに襲い掛かり餌を独り占めできるので「ハトvsハト」よりも利益がある→適応度が高い。
といったよーに、集団内の頻度によって適応度が変わることはある。だが選択の単位として妥当ではない、ということではない。

このよーな文脈依存的な適応度の変化は、オオシモフリエダシャクの工業暗化の例にも当てはまる。
汚染の少ないところでは白いエダシャクが有利だが、汚染の激しいところでは逆転する。


で、しつもーん。

オオシ(中略)シャクの例は、それまでの鎌状赤血球とタカハトの例とは少し異なるよね?
鎌状とタカハトは、集団内の遺伝子頻度という文脈依存を持つが、
オオ(略)ャクのは森林が汚染されているかどうかという文脈に依存する。
オ(略)ャク集団内の黒色型・白色型という頻度には依存しない。
なんでこれが反論になるんだろーか?

あんさー。
ソーバーはオ(略)ク(略しすぎだ!)のよーな環境文脈依存も認めない(らしい?

いやしかし、それを言ったら自然選択の否定にならないか?
自然選択はまさに環境依存に起因する出来事。

文脈依存にも程度がある。遺伝子頻度というミクロなレベルから個体やら環境やらというレベル。
ソーバーはどのレベルなら認めて、どのレベルから認めないのか?
そして認めるかどうかの基準って何?

⇒来週に持ち越しー



にこめ。

選択の単位を問題として論争があるけれど
生物の理解には階層的な理解が不可欠だよね?
分子・細胞・個体・集団・生態、という風に。

たとえば、モーリシャスショウジョウバエはノニの実が大好き。
モーリシャスは、Obp57d/eという遺伝子を持つことにより、Obpプロテインが作られる。(分子)
それはモーリシャスの足の先端部分で発現し、足の細胞にはObpプロテインが含まれる。(細胞)
足の先端部分には化学感覚毛があり、ショウジョウバエはここで味を判断する(細胞?)
モーリシャスの場合、Obpプロテインによってノニに含まれるヘキサン酸の味を感知しノニに好んで集まる(個体の行動)
ほかの種類のショウジョウバエはノニを食べない。食べるのはこのモーリだけ。
モーリシャスショウジョウバエの住むモーリシャス諸島にはこのノニが生えており、南アフリカにもともと生息していた祖先種と分かれてモーリシャスにて種分化する過程でこのよーなObp機構を獲得したのだろう(生態)(てきとーな説明)

といったよーにあるひとつの事象について、分子レベルから生態レベルにまで語ることができる。
しかしどれが正しいとかいった話じゃない。どれも一連の流れとしてつながった話。


しつもーん
自然選択の単位をめぐる問題は、上述のような話には当てはまらないのか?


あんさー
基本となる単位がどれか、ということ。
自然選択、進化の過程は一個体における話ではなく連綿と続く長い時間における話。
そこにおいて、単位はどれかと考えると一連の流れにおいて失われずにあるものをみなければならない。
種なんてのはあるかどうかわからない。個体は消失する。細胞も入れ替わる。失われず見出されるものは遺伝子、と。
だが遺伝子だけが存在していたのではなく変化しようと細胞・個体(・種?)は常にある。そこは切り離せない事象。
つまり、自然選択の流れの中において共通するものを選択の単位と見出すが、個体などをまったく切り離して遺伝子のみが単位である、と語っているわけではない(かつてのドーキンスは完全遺伝子信奉主義だったらしいが。

………しかし、となると、先生は思想的立場としてはドーキンスらに反対派のはず。
僕はこれでドーキンスへの理解(ってかシンパシー?)は深まったが、アンチドーキンスの思考はまだわかっていない。
(これは来週の先生のプレゼンの続きで言われるか、あるいは質問してこよう。)



みっつめ。

遺伝子選択主義に対する批判としてもうひとつ、Beanbag Geneticsというものがある。
メンデルがエンドウマメにおいて想定していたような、遺伝子型と表現型の一対一の関係。それがすべての表現型において成り立つわけじゃない、という事実。
それが遺伝選択主義に対する批判になる、と。


しつもーん
………む、なんでかな?
別に一対一じゃなくても、遺伝子の複合的な働きからある表現型ができるとしても別にいいじゃない。
肝心なのは、遺伝子というバックボーンによって表現型ができあがる、ということなのでは?
一対一とか複合的とか、そういったことは重要なところではないのでは。

あんさー
このBeanbag Geneticsは、とある潮流に対する批判として打ち出されたもの。
というのも、バックボーンとして本当に遺伝子があるかどうか科学的にわかっていないのに、その表現型はそれをコードする遺伝子があるからなんだ!と無闇に主張する人たちがいたそーで。
たとえば、ヒトのオスが浮気をしたりするのは、浮気をする遺伝子があるからだ、といったよーに。
そんなの、遺伝子なのか環境によるものなのかわかってなんか全然いない。
こういった主張に対する批判として言われたそーだ。
僕の質問のように、遺伝子に裏打ちされているとわかっている表現型については僕の考えるとおりでよろしい。



よっつめ。

という上記の話から新たな疑問が生まれる。
遺伝子に裏打ちされていないかもしれない表現型というものがある。
遺伝子選択主義はどうやってそれを説明するんだろ?
アレ?話違う?



えと、こんなところかしらー





マクロスフロンティア。

昨日地会室で6話まで観ました。
………やっべぇ、これは、おもしろい 。
アルトがよい。シェリルがよい。歌がよい。音楽がよい。
ぶっちゃけストーリーではなくキャラと音楽だけれど、とても良いよコレ!
歌が作中に重要な意味を持つアニメやゲームって大抵好きだ。
ガンダムSeed(ラクス・クライン)、アビス(ティアの譜歌)、………あれ、他になんだったかな、
坂本真綾のOPもシェリルの歌も、すごく素敵、これはCDを即レンタルしに行かねば!
音楽は菅野ようこさんですしね!これはもう文句なしです。




………と、まあ、ね。
昨日は学生大会で忙しかったよね、マクロスおもしろかったもんね、
今日は先生に質問に行ったからめもりたかったもんね、

そんな場合かぁァァアアアアアアアアアアアアアア!!!!
明日レポート提出だろうがァァ G術会で東浩紀学習会じゃろうがぁぁぁああ!!

すみませんすみません
今からやります すみまっせーーん!

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