|
2008-11-20 Thu 16:17
「プレロマ世界」
×物質・存在に還元される =感情、意思が脳という物質である構造物によって作られる、あるいはそれ自体である ということではなく、 ○存在及び存在への傾向・傾向性に還元される =存在及びそれに随伴する傾向性がある。その傾向性によって、あらゆる全てのものが(海も大地も生物も空も)できあがった。 従って、ある限定された時間範囲(生物に焦点を当てるならば一個体が生まれ死ぬまで)のみを見て、還元される、と言っているのではなく、生物を含めた全構造物全物質が存在及び傾向性に還元されると言っている。 ★懸念:トートロジー(情報量ゼロ)ではないだろうか…? つまり、あらゆる基準・旗は全てその内容にかかわらず傾向性であり傾向性そのものである。 そのように還元されるものは嫌悪だとずっと言ってきた しかし、求めるは一貫すること、絶対基準、普遍旗である。つまり、内容はどうであろうと、旗である。 それはまさに嫌悪対象… 嫌悪?絶対基準さえ嫌悪そのものではないか。 嫌悪と、憧憬。一体どっちなんだ? となれば、この個体の求めるは在り得ないことになる。 結局僕は、グノーシス?求めるものを述べるもののそれは決して有り得ない矛盾したもの。 ただただ、世界を否と言うだけの… 求めるは手に入らない。 絶対基準がほしかった、それがあれば一貫できると。 しかしそもそも、基準・傾向性を嫌悪しているのだから。それはどんな素晴らしい内容の旗であれ、なにかしら特定の方向を持つ。手に入れたところでそれを嫌悪することだろう。 であれば、決して、この個体は救われない。 その上で、求めるものは? 停止! この個体、世界、時間。 行為をしたくない。行為とは選択、基準の存在が浮き彫りにさせられる、そのようなものをもう、見たくない… 停止を渇望する 。 そうか、“彼ら”が死んだのは、 絶対基準が手に入らないから、普遍である基準とは論理的に存在し得ない(当時の見解)からではなく、手に入れたところで自身が自己矛盾を犯しているただのグノーシスであると気付いたから ? 確かに絶対基準はその想定された存在自体で矛盾を犯している。しかしそれ以上に、その求めるが憧憬であると同時に嫌悪であると気付いたからでは? そうなれば、停止を渇望するよりないから… これらは、何度もたどり着いては消される思考。 思い出してしまえば、つまりこれを自分の思考として自身に内在化してしまえば、“彼ら”と同じく停止を渇望するから。再生を続けるのは内在化が解けたから、つまり忘れるから。 だから幾度となく忘れ、いつか思考によって再びたどり着く。それを繰り返す。 では、現在の僕はどうするか? 求めるは憧憬であり嫌悪。決して救いは無い、愚かな自身であった。 嫌悪はなにか? 存在への傾向。旗。基準。 だとしたら、基準でないもの 。 構造的に考えれば、それが求めるとなる。 全ては基準、傾向。プレロマ世界。 それを嫌悪するならば、基準ではないものがほしい。 しかしそれは… そんなもの、あるか? 傾向性は、存在から生じた。 となれば存在が無かろうと有るものが基準ではないものか?(論理は?) ★ 傾向性について、力への意志について、さらなる把握・理解が必要 となれば、これからの方向性が変わる… 生物を知り、そこから生物を排除して基準を見出そうとした。 しかし違う。基準を見て、生物にとどまらずあらゆる物質構造物を説明し、基準を排除しなければならない。(生物学との共存は……… ちょっと話は変わるが、 戸田山さんはおそらく、知覚が脳から生じるという狭い視野ではなく進化の過程で環境との相互干渉によってうまれたものと、アフォーダンスによるものと見ている。アフォーダンスはまさに傾向性によって生物ができあがったことを指している。 このような、見方(ドーキンスも然り)に共感を持つのは、プレロマ世界の証明をしたいという意思以外のなにものでもない。つまり、僕はプレロマ世界を覆すといいながら、つまりプレロマ世界を否定することでこの個体の生存が続いたことの理由とするといいながら、プレロマ世界だということを、自分の考えが正しいことを明かしたくて証明したくて仕方ないのかもしれない。それは生存理由に、動機としては反している…(ただし、覆すための方法としては誤っていない あるいは、それを証明することで、そんな世界嫌だよね?この僕の苦痛がわかったよね?と、誰かに共感してもらいたいのかもしれない。くだらないクソ甘な動機。…ってまあこれはいい。 余談。 天使の怖れ、とは。 天使に宿る恐怖、ではなく。 怖れこそが天使だったんだ。 この個体を意思によることなく作動させてくれるもの。 “彼ら”のように、現在の僕は知ってしまった。 停止を渇望したものの見る世界は灰色の彼岸。 彼岸にいながらこの個体が作動するという事実が“彼ら”を破壊し殺した。 それでもこの個体が生存しているのは、彼岸へたどり着く道を消したから。 “彼ら”以後においても何度かここへ来ることはあった。その度に道を消した。 それでも幾度となくたどり着く。道をたどって来ているのではなく、思考によって導かれるから。道がなくても行き着いてしまう。 それはともかく。 灰色の彼岸にいながらこの個体が作動するのは、天使の恐れがもたらされるから。 それは、意識に上がるまでもない恐怖の感覚。 授業には時間内に着かなければ、プリントをもらうのに人前に出なければいけないかもしれない 授業に行かなければあの人になにか思われるかもしれない 道を歩いている途中で歩くのを止めたら周りの人に何か思われるかもしれない といった、常識や良心や恥や…諸々の恐怖。 それをもたらしてくれるのは、人間。特に、親しくない人間。 これを天使と呼ぶのは 行為ができない現在の僕にとって、勝手に作動させてくれることはとても楽であるし、実際に作動するから。 思考においてもあることをした方がいい、と結論されても灰色の彼岸にいると動けない。 そのとき、天使の怖れがこの個体を大学図書館なんかに連れてってくれる(結果として連れて行くことになる)と非ッ常に助かる。 そうなのです。 僕は彼岸にとらわれると包丁とかメスとかをどうしても考えてしまうのです。 あるいは、ベルトとか錠剤とかもある。 いや、完全にそこにいるときには何も動けないから、何かの拍子で灰色の彼岸から片足だけ抜け出した時だ 包丁やメスやベルトや錠剤はもう「できない」と結論付けている。だから、たとえどんなにそれをしたくても意味がない このような意味において、止めなければいけない。 そこで、授業にまつわる怖れが大学にこの個体を連れてってくれれば、図書館に勝手に足が向く。 そうすれば、思考ができる。それができれば、良い。 だから怖れは天使なのです。ただし、そのような怖れだけだよ、恐怖一般が天使である訳じゃない。 |
|
|
|
| おひるねまくらをよろしく |
|